2008年9月10日

観光ではなく、道が決まった仕事としての96年の渡英は、
技術的なことしかり、精神的にも充実した感がありました。






やはり人間にとって自信ってのは大きいと思う。






自分のやろうとしてたことが
ロンドンでも受け入れられそうな位に、
大袈裟だけどちょっとした確信があった。






例えばロンドンの若者でさえ
スーツをオーダーしたいと思っていること、
そん中で良い店を探していること、






一部の金持ちや身分の高い人が行くような
サビルロウの老舗店や高級ブランドには、
大抵の若者は身の丈が合わないことを自覚しているから、
もっと違った洒落てて敷居の高くない店を探しているということ。
テイラーがリスペクトされていること。






色々な人の意見や街を観察し眺めていると、
日本に居る時よりも自信が出てくるのです。






また面白い話なんで、話し半分で良いですが、
当時ロンドンの新しいお洒落スポットになりつつあった
ノッテイングヒル界隈のポートベローとミナミ界隈の南船場の街の出来方が
なんとなくだけど、割りと似ていたような気がします。






この何年後かにノッテイングヒルの恋人という映画があったり、
まぁそれに比べるとかなり滅茶苦茶ローカルな話題なりにも、
同じくそれから数年後に南船場が全国的に注目されて、
テレビや雑誌に出ることが増えました。












勿論映画にもなってないけどね(笑)












また前にもこのコニログで書いた話なんですが、
当時世界的にピチカートファイヴが凄い人気で、
ロンドンのSOHOのど真ん中のタワーレコードに
巨大な小西さんと野宮さんのピチカートパネルがあり、
それを眺めてて日本人の誇りだと思いました。






しかもそのパネルの中の小西康陽さんはスーツを着てたので、
やはりそこで小西が作るスーツを
小西氏に着て欲しいと何故か誓ったのでした。






続く






また、LIRIOさんにて、
「コニログスポーツ!」略して「コニスポ!!」をスタートしています。






皆に感動を与える様々なスポーツやその魂をリポートし、
知られざるアスリートの素顔や日常を
独自の真面目で面白い観点で追いながら、
こんな節度と緩さのあるスポーツ紙があったら良いなぁ~的に
エンターテイメントなども紹介していきます。






こちらも是非ご覧下さい。

2008年9月 4日

95年は店の物件探しや、展示会をしたり、ちょっとしたショーをしたり、
またパターンオーダー用のパターン制作などに明け暮れました。






お客様に安心してもらえる
パターンオーダーの仕組みについてかなり考えていました。






その頃まではどちらかというと親からの影響もあり、
フルオーダーの方が経験上で慣れていたと思います。






お客様視点で分かりやすく、仕様を選ぶのが楽しく、
お客様が安心の出来るパターンオーダーシステムを
考えなければと試行錯誤しておりました。






また価格もセレクトショップの既製品並みの
価格にしたいと考えていました。






英国のリチャードジェームスやそのパートナーの商社の方にも
色々と日本での展開を相談されたりして、
僕なりの日本でのビジネス論について語りました。






皆が新しいオーダーメイドビジネスに対して
試行錯誤していた時期でした。






それから私がロンドンに長期滞在したのは96年の春でした。






リチャードジェームスの店が一番最初の狭い店から
サビルロウの路面店に進出した頃だったと思います。






現在はその二軒北隣のさらに大きな店になっています。






リチャードジェームスの考え方を色々と聞いたり、
フィッティングや接客などを観察したり、
本格的に製品の仕入れをしたり、
目的意識がはっきりしてるので割とスムーズだったし、
色んな感性を吸収出来ました。












続く









また、LIRIOさんにて、
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皆に感動を与える様々なスポーツやその魂をリポートし、
知られざるアスリートの素顔や日常を
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2008年8月27日

95年にシャツメーカーを退社してすぐに
BESPOKE TAILOR DMGを設立した。

既に会社を辞める前にテイラーつまり
仕立て屋を始めていたような感じではあったので、
顧客になりそうなお客様や友人は非常に有難いことにありましたから、
店を出すことはやはり念頭にありました。

最初は地元でも物件探しとかしたんですが、
やはり大阪市内の便利の良い場所で、
家賃のなるべく高くない場所をという感じで
南船場4や博労町4の路面を中心に色々と捜してたら、
何故か狭いんだけど博労町の難波神社前の
路面の小さな物件がとても気になり、
そこに何回も見に行った。

またその頃ある商社を通して、
リチャードジェームスという当時サビルロウに進出したばかりの
新世代型テイラーの日本でのパターンオーダーの展開を薦められたので、
それにもちょっと乗っかってみることにしました。

そもそも仕立て屋業を始めようと決心したきっかけの1つには、
オズワルドボーディングやリチャードジェームスや
ティモシーエベレスト、マークパウエルら
ロンドンの新世代テイラーの影響がありました。

インターネットの普及する少し前に同時多発的に、
世界のファッション都市では同じようなことを
考えていた人が居たのが何だか嬉しかった。

今思えばある意味リチャードジェームスのオーダービジネスの話が舞い込んだのは、
他人にやりたいことを話したりアピールしていく中で、
ある程度は自分で引き寄せてきたような訳でもありますが、
そんな全てをまとめていくにはタイミングの良さや偶然が凄く重要であること。

一番大事なことは人にちゃんとしたアピールをすることが
いかに人生の中で大事なことか?ということにまず気づいた。

テイラーってのはとても根気のいる仕事で、
誰も見てない所で黙々と作業をし、
縫製や手法に対して拘り続けていくもので、
そこの部分を鼓舞しないことは確かにダンディズムである。

しかし誰にも理解されないことや誰にも気づかれないことは、
全く訳の分からないものになる可能性もある。

それが悪い訳では決してないのだけれど、
ダンディズムってのはさじ加減が非常に難しいのだと思います。

またそもそもダンディズムを
ビジネスとして捉えるのも間違っているかもしれませんから
この話はまあこれぐらいにしますね。

そんなこんなでとりあえず難波神社前の物件の手付金を払い、
ロンドンのリチャードジェームスに会いに行きました。


続く


また、LIRIOさんにて、
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皆に感動を与える様々なスポーツやその魂をリポートし、
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2008年8月18日

勤めていたシャツメーカーの会社に辞表を出したのが95年の1月で、
実際辞めれたのがその年の7月末でした。

やはり会社を辞めようと思ったのは、
バンドの解散を期に、趣味と実益が伴っていた
メンズのオーダースーツ屋、洋服屋として飯を食おう!食いたい!と
決心したことが大きいのですが、

辞表を出した一番のきっかけは、関西淡路大震災です。

人生何があるか分からないから生きてるうちは、
やはり好きなことをして生きて行こうと思うようになりました。

藤原紀香も同じこと言ってますが、
僕らの世代で関西に住んでたなら
あの地震の後の考え方って共感出来ると思う。

また東京に行った友人達や当時の仲間や、
ちょっと遠い存在の憧れてる人にまで、
負けたくない気持ちもあったと思います。

会社に辞表出したとたんに、
滅茶苦茶スーツ作りに励みました。

有給でイギリスやシンガポール、マレーシアなどの海外に勉強に行った。

イギリスはサビルロウ周辺で、
マレーシアへは東洋紡の糸工場に行ったり、
帰りはシンガポールでパスポート無くして
1週間近く帰って来れなかったりした。(笑)

また杉山デザインアカデミーという
テイラーを養成する学校にも通いました。

この学校は杉山先生という英国でも認められた方が、
英国流のスーツ作りを直接指導してくれる学校でした。

当時杉山先生は中国に技術指導の為に長期不在で、
その杉山先生の弟子である岡本先生が指導して下さっていました。

他のファッションの専門学校のように色々な科目がある訳でなく、
ちょっと珍しいというか貴重な学校で
パターン作り、裁断、縫製、の各スーツ、ベスト、コートの科目位しかない。

しかしそれだけに実務的にも奥の深い技術や職人を養成する学校である。

実際学生というよりは
縫製工場やテイラーに勤めながら通っている人が多かったです。

ちなみに僕の習ってた時は生徒2人だったので、
もう一人の生徒さんとは仲良くなりましたし、
お互いが休むなよ!とか言って
軽いプレッシャーかけてましたね。(笑)


続く

2008年8月14日

94年に入り「東京は夜の7時」がオリコンチャートの上位になったりして、
ピチカートファイヴが日本だけでなくアメリカ、ヨーロッパなどの
海外でも凄い人気になっており、所謂渋谷系と呼ばれる音楽が絶頂期となっていた。

その中の身近な所で、
京都のサウンドイムポッシブルという二人組DJや
グルービジョンという映像作家集団が、
京都のメトロというクラブの平日の夜中にイベントをやっていて、
僕らは何度も通っていた。

実はそのサウンドイム…の1人は
今のFPMこと田中知之さんで、
もう1人がロマンザという美容室の松山さんだった。

グルービジョンとはあのグルビの伊藤さんとミルクマンさん達です。

とにかくその京都チーム周辺が
あらゆる雑誌でピチカートの小西氏から太鼓判が押されていたので、
余りに羨ましくてという気持ちと音楽仲間的な友人達が
その辺りの方と接触していたこともあり、
ちょっと通いつめ影響されました。(笑)

やはりその後のFPMやグルビの活躍で、
よく分かる通り、本当に世界的に見てもレベルが高過ぎて、
カルチャーショックというかホントビックリの連続だった。

世界最古のラウンジDJって間違いなく
サウンドイムポッシブルだと思います。

グルビの映像もスゲー衝撃だった。

こんなにセンスがあり細かい編集能力と
壮大さのある映像は初めて見た気がしたのだ。

京都チームの凄さにちょっとヤバいなぁ~凄いなぁ~と感じつつ、
サラリーマンしながらバンド活動を騙し騙しやっていたのも束の間、
94年の後半には、音楽仲間的な友人達やバンドの中心メンバーが
次々と東京に移住を宣言する。

FPMさんやグルビの京都チームが
大勢で東京に移住するので、
それに皆が触発されたりとかあるだろうし、
大阪や京都に居るより確実に仕事があるだろうから仕方ない。

そんなこんなで結局バンドも解散してしまっていた。

95年に入ってFPMはピチカートファイヴのロマンチック96というアルバムから
2曲の間借りデビューを果たしたり、
テイトウワさんプロデュースの今田耕司さんの
「ナウロマンティック」のリミックスを手掛けたりしていて、一躍有名になった。

グルビはピチカートのグラフィックデザインや映像関連、
またスカパラのジャケットデザインとかやってて、
これまたいきなり凄い人気で一躍有名になっていた。

もうそうゆう風な感じになると、挫折した経験の中での自分の夢は、
屈折したのかストレートなのかは自分では分からないんだけど、
ピチカートファイヴの小西康陽氏に自分(小西正仁)が作ったスーツを
着てもらいたいということに、いつの日か変わっていったのでした。


続く

2008年8月 6日

シャツメーカーの商品センター勤務から約1年後に営業企画に配属され、
名古屋や東海地方に出張することが多くなった。

量販店担当になりいきなり何も分からないまま商談もした。

最初はバイヤーの脅迫まがいな脅しとか色んなことにビビってしまいまして
続けられるか不安だったんですが、
割と早く慣れて商談を独りでもうまく出来るようになりました。

同期やちょっと上を入れても一番売り上げとかあったんじゃないかなと思います。
辞める前の一年間は2億から3億位の営業成績でした。

サラリーマン金太郎みたくちょとした熱意はありましたよ!

また商売に魅力を感じてきた僕はコズカイ稼ぎとして
自宅のアトリエでプチオーダーサロンを始めたのもこの頃です。

会社関係や取引先の方や身近な友人を中心に
割と安くでスーツを提供&販売しておりました。

あとこの頃モッズシーンがかなり人気あったので、
5月のモッズメーデーを前に大阪のマンボラマに
チラシを置かしてもらったりしてモッズスーツの注文も取り始めていました。

その時チラシを置いて良いか?…を頼んだのが
当時マンボラマの名物店長だった樋口さんにで、
後に樋口さんと交流し仲良くなってから聞いたんですが、
めったに同業者的な服屋系のチラシは断ったりが多く、
普通マンボラマでは絶対置かないんだってさ!

なんか知らんけどこれは熱意あって良いかなって判断したんや…と
樋口さんは語ってくれたことがある。

またそのチラシを当時高校生だった現朝日新聞記者で、
元報知新聞の芸能記者でもあり、
なるともや週間エミー賞に出てた後藤洋平君が
マンボラマからチラシを家に持って帰ってたらしい。(笑)

僕の自宅のプチサロンと洋平の家がすぐ近くだったので、
彼なりにびっくりして嬉しかったらしいよ!

後藤洋平君は今ではスーツジャケット合わせて
10着以上いや!もっとあるかも?、シャツは20枚以上は
恐らくオーダーしてくれてはると思います。

進歩や進化を何気に知っているかもしれない
顧客でもある後輩君です。

因みに洋平君は同じ中学の7つ下です。
(最近仲良しな雨上がりの宮迫君は同じ中学の同級生です。)

その頃宮迫は雨上がり決死隊として
たまに関西のテレビに出るようになってたと思います。

あと滅茶苦茶笑えるのが、
たまたま僕らのライブに来てたマンボラマの小沢さんに
僕らのMASTERINCのCDをプレゼントしたことがあって、
良く考えたら小沢さん的にはハウスやテクノって
一番聞かないようなジャンルじゃないかなぁ?と思います(笑)

今だから笑えますが、ぶっちゃけ当時は雑誌に出てる
お洒落な人なんかは、何でも聴くやろ~と思ってとりあえず渡そ~てな感じですわ。
勝手な凄い思い込みでした。

今みたいに深いこと考えナイス!

色々社会勉強させて下さった皆様本当にありがとうございました。(笑)


続く


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2008年8月 1日

自分自身にとっての青春というか、
頑張ってた時期ってのはかなり遅いかもしれないが、
今思えば1992、93年の22、23歳くらいのこの時期だったような気がする。

会社の友人や昔の友人達も
雑誌やフリーペーパーやクラブのチラシなどを見て、
バンド活動を知ってもらったことがあったり、
CDはタワレコやHMVではまあまあ大きくコーナー展開してたので、
ちょっとした訳の分からないような優越感を生まれて初めて感じてた時でした。

調子に乗れてないのに乗ってるような気になってたかも(笑)

またサブローシローって漫才師のシローさんって方が
バーテンしてた店がアメ村の三津寺会館にあって
何故かそこでバンドのミーティングをしたりしてた。(笑)

シローさんは当時吉本と喧嘩したとかで辞めてた頃で、
よくカウンターの中で物真似をしてたな~
かなり西川きよしとか…滅茶苦茶旨かったのを覚えてる。

またこの頃ハウスやテクノの人気以外に、
UFOというアーティストがアシッドジャズをやっていて、
プラネットプランなどのスーツを着ていたので、
自分の日課であるスーツ作りもさらに楽しくなったような気がした。

何より流行りとか、カッコヨイと雑誌で言われてたモノに
影響されやすい体質でしたから。(笑)

若気な感じで

関西ではいち早くタトル&ダイナモやDJタケムラが
そんなジャズっぽいトラックを作り出してた頃です。

格好まで真似しないのがある意味大阪らしくて良いね!

その頃タトル&ダイナモがあの河内音頭で有名な
河内家菊水丸とコラボして、コロンビアからシングルを出したんだけど、
二曲目がDJタケムラだった。

メジャーからアルバム出そうだったけど、
結局出なくて、1年半位してから大日本昆虫記ってアルバムが、
インディーズ発売してました。

ちょっとタイミング悪くて彼らなりに不本意だったと思いますが、
そういう近い友人とかがジャズとかバングラビートだとかって
新しい音楽を追求してたのが互いに影響を与えたりして、
音楽活動的にも良いバイブレーションになっていた時期だと思います。


続く


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2008年7月25日

シャツメーカーに入社してから、
最初は同期全員で商品センターに配属された。

約1年位は荷受け、出荷や返品処理の作業をしていました。

当時急激な不景気の煽りを受け、
返品商品が増えておりまして、
かなりしんどい肉体労働だったので、
ウイークデーは全くお洒落な要素のない生活になってしまってたので、
滅茶苦茶休日ホリデーはお洒落にしようと服を買いまくったり、
自分でスーツを製作することに没頭した。

因みにこの頃の体重は
肉体労働者なのでなんと60キロちょうど位でした。(笑)

またその11にも書いてたように音楽活動も
滅茶苦茶頑張った時期でもある。

若いし太れなかった訳です。

ライブとかはクラブ系が主体だったので、
大体金曜か土曜の祝日前で、
金曜日8時か9時に仕事が終わったとすると、
クラブに直行したらリハーサルに間に合ったりした。

店は10時頃開店で出番は
12時か1時とかだから活動の継続も割とうまく出来た訳です。

大体週に二回はスタジオに入ってて、
月に二回位真夜中にライブしてました。

スタジオはレコーディングが東大阪のアルススタジオで、
練習はアメリカ村のサンビレッジのスタジオで、
音作りは南茨木のメンバーのスタジオでした。

ライブは難波ロケッツや京都マッシュルーム、
それと毎月ライブやってたのが
鰻谷のゼルコバビルのジータ、ボールルームなど。

対バンはタトル&ダイナモとか、
今でも東京のクラブ系アーティストのエンジニアとして
有名な大西さんのクレイ2とか…

あの今や世界のカリスマDJヨージビオメハニカさんに
ゲストで出てもらったこともあった。

打ち上げの時にヨージビオメハニカさんが来て
「なかなか臨場感あるね!」って
誉めてもらえたことが嬉しくて今でも覚えています。

ボールルームは店長が友人だったのでちょくちょくライブしてた。

その後その全く同じ場所で、
数年後に南船場ルーリオの時枝さんが
ライブハウスを1年位やってたのも何か縁があって面白い。


続く


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2008年7月18日

就職活動の中では2社だけ
総務の人事課長さんに気に入られた。

自分で服を作っていることや音楽活動などに
興味を持ってくれたりして、
こいつは面白いと思ってくれたのだと思う。

ちょっと変わり種の会社だったかもしれない。(笑)

色々と褒められたので嬉しくなり、
そのどちらかに入社しようと思いながら
某シャツメーカーに入社する。

当時既製品のシャツメーカーではまあまあ大手で、
拘りの薄いオーダーシャツなんかも手掛けている会社でした。

三回生の時点で既に大学の単位は全てとっていたので、
就職が決まった四回生の夏以降は残された時間は、
作曲活動やバイトをしながら
そのお金で毎月のように頑張ってレコーディングをした。

その頃に知り合った友人達と
ハウスミュージックのユニット「MASTERINC」を組んだ。

2年後の93年には自主制作ながらCDも出した。
毎月ライブもしてました。
タワレコやHMVではまあまあ売れたみたいでした。

その頃衣装的なモノも自分で作ったり、
既製品に手を加えたりして使用していました。

またCDのジャッケットデザインや販促品を考える中で、
フォント及びグラフィックデザインの重要性や
格好良さのイメージの確立ってのが、
アーティストとして、お洒落度として不可欠であることを学んだ。

当時の僕にとってのカリスマは
まさにその筋の確信犯とも言うべきピチカートファイヴだった。

まだ野宮さんが加入し始めで、
小西&高浪氏の時代である。

同じ名字の知らない凄い人を発見したことにビビる。

戦国大名の小西行長や、
タレントの小西博之を知った時の数百倍は感動した。

その名は小西康晴さん

まぁ会社に通いながらの音楽活動は
スケジュールとか大変だったけど楽しかったし、
その当時知り合った人で
今もプロミュージシャンとして活躍してる人もいるし、
なんか良い思い出かもしれない。

その当時バントのテーマに掲げていたMODE&MONEYという観点は、
自己の才能を見つめて生活して生きていく中で、
今も自分や会社の考えの基本となっていると思います。


続く


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2008年7月14日

スーツや身なりに拘りながらある意味調子に乗って
自慢げに自分の作ったスーツで就職活動してる僕は、
社会からの初めての洗礼とも言うべき就職活動では、
初めて世の中の厳しい現実を見たという感が記憶にあります。

僕は親が紹介する縁故推薦や
大学の推薦する会社を初めから断ってたのですが、
カッコ悪いことに自分で良いと思って
探したほとんどの会社に落ちてしまいまして、
20以上会社受けて内定は2つだけでした。

落ちてから二度受けたアパレル会社もありましたが、
そこもやはり落ちました。

調子に乗って広告代理店やテレビ局なども受けたが、
全て一次で落ちました。

今思うと経営学部なのに服飾専門学校生のように
自分の身なりやスーツを自慢するかのような学生は
社会の中ではかなり変な奴に見えたようです。

実際そうだと思います。

特に大手の人気アパレルだと経営学部卒は
営業職しか受けることが出来ない会社が多かったのだが、
僕にとってはそれが不思議で仕方なかった。

簿記二級を持つ大学生は企画部の
デザイナーやパターンナーにはなれませんし向いてませんと
会社が言い切っている感があります。

また逆にデザイナー志望の服飾専門学校生は、
営業職や経営者にはなれないみたいに、
向いてないかのような扱いで
人の人生を決めつけている会社に、
当時馬鹿馬鹿しさまで感じてきた。

今でもやはりそれは少なからず
馬鹿馬鹿しい話だと思います…

就職活動や社会に疑問を持ちはじめた中で、
若い感情論であがき苦しむような気持ちもあり、
大学四年生の時にある種の就職活動の一貫のような軽い気持ちで、
自分で独りで作ったデモテープをレコード会社に送ったりもしていて、
なんと直接レコード会社や関係の方から連絡くるようになっていました。

ひょっとしたらという気持ちもあったんですが、
スタジオでレコーディングしたりすることになりました。

知り合いの優秀なエンジニアの居た
東大阪のアルススタジオっていうとこでレコーディングをしてたら、
スタジオ前の路地に汚いワゴン車があって、
車の置き場所をそのワゴンとよく取り合いしていた。

その車にシャ乱Qと書かれたステッカーを何枚も貼っている
廃車間近な位にボロい車でした。

あのつんくのシャ乱Qでした。

ある時大学四年のクリスマスイヴの日に、
普段は人気のスタジオなんで24時間予約満杯なのに、
クリスマスは1日に二組しか入ってなくて、
僕独りとシャ乱Qだけだった。(笑)

当時シャ乱Qは大阪城の近くで路上ライヴをやっていて人気があり、
メジャーデビュー前だったらしい。

でもクリスマスイブにファンらしき女の子が
入口で待ってたりしてたような…

話はそれますがその日最悪だったのが、
帰りの車からふと千里丘のあるファミレスを覗くと
その当時クリスマス直前にフラレた元カノが男とデートしていた。

クリスマスになんでファミレスでデートやねん!ってのは置いといて、

なんか悔しくてそのファミレスには5年位行かなかった。

これってトラウマ?

今はファミレスによく行ってますよ。


続く


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2008年7月10日

スーツ作りを真剣にするようになったきっかけは、
大学三回生の後半に就職活動をするようになってからです。
それは巷のショップの既製品にはしっくりくるスーツが少なかったからです。

スーツを趣味で作り初めてからも、
気になるジャケットやスーツなど勿論購入してましたが、
ビジネス用でしかもフレッシャーズとなると制約されるので、
既製品で拘ってるといえるようなスーツが極端に少なかった。

だから色々と研究しながら
毎月1着のペースで自分で作り初めました。

友人や周りの人に頼まれて
スーツを作り始めたきっかけもこの頃からです。

僕はファッションにおいてモード系が当時好きだったのだけど、
モッズ文化を図書館や購入した本で調べて行くうちに、
モッズスーツやライフスタイルに興味を持ったり、
トラッドとしてではなくポロシャツのワンアイテムだけ
その当時大人気だったラルフローレンを深く研究したりしてるうちに、
トラッドなファッションにも興味を持ってしまったりとそういった感じです。

今でもそうなんですが、
僕は多分巷でお洒落と言われるモノの全てに
興味があるんだと思います。

要するに似合ってるからが大事であり、
似合ってて、それが粋であれば、
どんなファッションでもお洒落なファッションピープルな訳ですから、
なんか解らないけど全てのスーツスタイルにハマッていきました。

そのハマるというのは自分がそんな格好にハマルこともあれば、
そんな服は着ませんが、そのファッションを作り手側から研究してハマったり、
また出来上がったスーツをこんな人に着て欲しいなぁ
という願望に発展してしまいました。

知り合いや友人で似合いそうな人に着てもらって、
ある時はカメラマンに写真を撮って貰ったり、
そんなこんなになっていったのもこの頃です。

そしてアパレル系の会社に就職して
好きな洋服の仕事をしたいなという気持ちが芽生えてきました。


続く


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2008年7月 2日

最初に英国に行ったの90年頃で洋服よりも、
一番の目的は音楽だったからで、
当時のイギリスの音楽シーンは本当にかなりマジ熱かった。

ハウスやテクノのインディーズレーベルの勢いが凄くて、
小さいクラブ系のレーベルが英国のチャートで上位になっており、
当時の常識では考えられない快挙でした。

またちょうどマンチェスター系が全盛で、
しかもアシッドジャズが出始めの頃で、
かなりクラブを中心とする音楽シーンは盛り上がっていたと思います。

ガリアーノというアシッドジャズのラッパーや
ジャイルスピーターソンって有名なDJを知ったのもその頃でした。

それから約15年後の2005年にクールストラティンというブランドで
ジャイルスのスーツやコートを作ることになるのですが、
やはり最初の渡英を振り返るとあらゆるファッションや音楽の趣味が、
自分の中で確立されつつある時期で、

日本の大阪という地方都市に住んでいても
ワールドワイドなセンスや価値観を何気に理解しつつ、
感じれたことが大きかった。

また当時、現在のクールストラティンのボスである濱田さんが
アニエスbを初めて日本に紹介してクラブ系音楽ファンを中心に大ヒットさせ、
ご自身が代表として立ち上げられたトランスコンチネンツが
アシッドジャズファンの男の子女の子の必須ブランドとなるのも
ごく自然な世界的な流れだったと思います。

僕も勿論音楽とファッション共に影響されて、
トランスコンチネンツの濱田さんマニアになりました。

そのかなり後にゎそんな超カリスマな濱田さんが
大阪のうちの店に来て頂き高価なスーツをオーダーしてくれて、
またクールストラティンのスーツ担当にまで指名して戴けたことは
「光栄の極み」としか言い様がなく、
いまだにずっと濱田さんは
僕にとってのカリスマであることに変わりないのです。

また初めて背広(セビロ)の語源でもある
サビルロウに行って感動しました。

サビルロウストリートに行くまでは、
テイラーがこんなにかっこ良いとは正直思わなかったです。

サビルロウ周辺に日本人がテイラーしている
プレイスオブサビルロウという店があり興味を持ちました。

店員さんが日本でも代理店展開をするとおっしゃてました。

そう吉田トキトさんや澤村さんが
東京で展開されていた伝説的なテイラーショップのことです。

最初の渡英は何か自分にきっかけをくれたような気がします。


続く


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2008年6月27日

そのM2という東横堀川沿いのクラブは、
その当時の自分にとってかなりクールでカッコ良かったし、
もうかなり前に無くなったんだけど
今あったとしてもかなり面白いと思います。

今だとデタイユのヤマナミさんのカフェなんか
ちょっと北の方だけど雰囲気とかかなり似たロケーションですね。

あとクールにイケてたのが、
その店の関係者やコアなお客さんは、
皆一様に黒のスーツを着ていたことである。

しかも皆ヨウジやギャルソンでちょっと派手好きな人はゴルチェとか、
個人的に一番イケてたのはその頃スペースで扱ってた
ジョンガリアーノやジョンリッチモンドだった気がする。

繊細なデザインに興味があった。

デビューした位のドルチェ&ガッバーナは
サルトリアやテイラード的に一番カッコ良かったけどかなり高いし、
その頃はやはり他のイタリアブランドが人気有りすぎて、
買ってた人は僅かだと思うし、かなりの目利きでしょう。

ちゃっかりオンワードのファミリーセールで一着買いました。

世の中的にはアルマーニとヴェルサーチが全盛期に入っていた時代だから、
そう考えるとやはり特殊なクラブだったと思う。

そんな人気全盛のイタリアブランドを着てる人が、
入りずらい珍しいクラブでなんかマニアックな価値観で滅茶苦茶面白かった。

僕はと言えばそんなことよりも当時は
何故だかライフワーク的にスーツ作りの研究としても
色んなスーツを借りたり、何とか手に入れたりしてました。

ギャルソンやヨウジは好きだったから
黒スーツはしっかり購入していて、
しかもそれを少し真似した感じで
うちの工房にてスーツを作ったりもしていました。

今思えば既にイージーオーダーのパターンシステムよりも
進歩した仕組みを当時に考えてたような気がします。

何かきっかけってありますし、
まだ当時はブティックミチかアトリエミチのネームでしたがね。

まあ10万以上出して買うよりは
作る方が少し位は安くなる訳で、
その分で楽器機材を買ったりレコードを買う訳です。

ただ当時から舶来モノはかなり生地も高かったし、
職人さんに工賃払うとギャルソンより高くつくこともあった。

コストを下げる為に自分で簡単な作業をしたり、
イギリスに行った時に直販の生地のルートを探すきっかけにもなりました。


続く


また、LIRIOさんにて、
「コニログスポーツ!」略して「コニスポ!!」をスタートしています。

皆に感動を与える様々なスポーツやその魂をリポートし、
知られざるアスリートの素顔や日常を
独自の真面目で面白い観点で追いながら、
こんな節度と緩さのあるスポーツ紙があったら良いなぁ~的に
エンターテイメントなども紹介していきます。

こちらも是非ご覧下さい。

2008年6月21日

大学の入学式には
ちゃんとしたスーツを着て行った記憶があります。

どんな色のスーツかは忘れてしまいましたが、
多分初めて作ったスーツだったと思います。

大学に入るとやはり背伸びしたい年頃でもあるので、
その頃が人生で一番目立ちたいと思って
目立つことを色々やってた時期のような気がします。

別に将来のビジョンも無かったのだが、
そうでないと何かに埋もれてしまいそうで怖かった。

大学に入ったのも軽音楽部に入りたいからであって、
やはり他にも軽音楽部かフォークソング部に入りたいので
わざわざ地方からこの大学に来た人も居た。

だから何か目立たないと箸にも棒にも掛からない気がしたし、
軽音に入る人間って皆なれることなら
ミュージシャンになりたいに違いない人ばかりなんだけど、
僕がやりたいと思うジャンルの音楽をやってる人が全然居なかった。

フォーク系やハードロックやヘビメタが主流で、
プロバンドのサポートメンバーで滅茶苦茶テクニックの巧い人も多かったし、
他の大学と比較にならない位にレベルも高かった。

そんな憧れの軽音だけど理想を求め過ぎたからだろう。

わずか半年足らずで辞めてしまった。

あとウザイ先輩に鬼殺しっていう焼酎を
朝から飲まされたりで辛かったのも少しある。

その当時の軽音の同級生にグレープバインの西川がいる。

西川君はバイトもあまりしないで、
家に引きこもってギターばっかり弾いてた記憶がある。(笑)

今振り返ると大学である意味軽く変人扱いされてる人の方が、
特技が仕事に結び付いているような感じもちょっとするね。

軽音を辞めてからは、夜中にディスコではない、
新しいムーブメントだったクラブに顔を出すようになった。

所謂当時風だとナイトクラビングってやつです。

88年から90年前後のその当時の大阪は
ダイナマイト、M2、パラノイア、X‐RAY、ゲネシスなど
色んな個性的なクラブがありなかなか来てる客層も面白かった。

そんな店に目新しいモノ好きな友人に連れられたり、
誰かを誘ったりしながら、顔見知りが増えてからは独りでも通いつめた。

ちょうどミーツリージョナルという雑誌が創刊されて、
クラブのスケジュールやイベントの内容が詳細に書かれていたので、
ミーツを発売日によくチェックしていた。

その頃からダンスミュージックの1ジャンルである
ハウスにハマりだしてアナログレコードを沢山買うようになった。

自分もいつかそんな曲を作ってみたいと思っていて、
そしてキーボードマガジンを見ながら機材を買い始めた。

TR808というドラムマシンは高かったので、
アカイのサンプラーS950やYAMAHAのDX‐7、
大学後半にはオールインワンの優れ物EOSも買った。

高校時代に買った3万位のコルグのドラムマシン、
RolandJX‐3Pなども有名な海外のミュージシャンが使っていたので
引っ張り出してきて使った記憶がある。

その頃、上に挙げたクラブの中で
唯一そんなハウスの曲を作り始めた人や、
作りたい者達が集う店があった。

阿木譲さんという廃刊になったロックマガジンという
音楽誌の元編集長であった人が営むM2というクラブだ。


続く


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2008年6月19日

そんな音楽一番、ファッション二番な高校生活の
終わる寸前の受験シーズンの頃に、
友人情報や音楽雑誌などである格好良いバンドを見つけました。

全員同じ色のスーツで決めた滅茶苦茶かっこ良い
インディーズのスカのバンドが東京に存在することを知るのです。

その名は「東京スカパラダイスオーケストラ」
(それから約18年後に衣装スーツを担当することになります。)

当時まだスカパラのライブは見たことも無かったけれど、
バンドの名前もかっこいいし滅茶苦茶興味を持って
メンバーの雑誌でのインタビューとか読んでいた。

バリトンサックスの二枚目な人が、
今後の目標を「生涯伊達男」ってニヒルに言ってて、
この人はカッコヨイし、オーラの凄い人だなと思いました。

そう今は自分が兄貴と慕う谷中敦さんです。

色々と調べてみるとメンバーには、
ヘアメイクやスタイリストなどの業界系社会人の他に、
東京の大学に在学中の現役大学生もいるらしく、
そんな情報を知ると僕も急に東京の大学に行きたくなったのですが、

彼らスカパラメンバー数人が通っているといわれる
早稲田や慶應義塾や日大とかには、
自分の偏差値じゃ全く足りなかったし、
また浪人するど根性や開き直りが全然自分には皆無だったので、
関西のロックな大学と言えば大阪芸大以外では、
やはり桃山学院大ということで、
現役で桃山学院大経営学部になんとか滑りり込んで
軽音楽部の門を叩くことを決意するのでした。

当時何になりたいとか正直何も無かったんですが、
何も出来ない自分に苛立ちと焦りがあったのです。

訳も分からず形から入る訳でした。


続く


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2008年6月14日

そのカス高の学祭では軽音楽部に所属してた
槇原君というピアノと歌が上手な人がいて、
陸上部の不破君に紹介してもらい
槇原君に直接デモテープとかを渡したような記憶があります。

何を話したかは殆ど内容は忘れてしまった。
確かファッションの話とかのような…
彼にお洒落さんですね!とか言われたような記憶が…

なんとその人こそあのどんなときも敬之な槇原君です。

当時カス高軽音では、何故かエレキ系ギターは禁止だったらしく、
槇原君はアコースティックバンドで
当時人気だったバービーボーイズのコピーをしてました。

勿論担当はキーボードと歌で、男性にしては声が高音だし、
根性別をいかして杏子さんのパートを歌っていた。(笑)

こないだ槇原君とテレビ局でたまたますれ違いましたが、
僕のことやそんなこんなも忘れてるだろうな(笑)

また人気なバンドが、当時カス高にはまだおりました。

学祭とかのレベルのライブには出ない
半プロ的な「春日丘カルピス」ってゆう化粧とかしてるバンドで、
高校生なのに深夜のテレビの音楽番組とかまで出てて、
かなりカッコ良いロックバンドだったことを覚えています。

またその更に数倍カッコ良かったのが、
カス高生は槇原君1人だけでしたが、
サポートキーボードで参加してた
槇原君の親戚のお兄さんの寺西さんが率いる
「すかんち」というプロみたいなオーラのバンドがありました。

あのローリー寺西さんがブレイクしたきっかけのバンドで、
最近また「すかんち」は再結成してやはり人気のようです。。

高校時代そうゆう身近に凄いと思う人とかを見たりしてしまうと、
自分が何も大したことない普通の小さい人間に感じてくるから、
今思えば単に自分が大人になりたくて
見栄はってスーツなんかを着てたような気がしてきます。

まぁそれから最近になって、
自分がローリ寺西さんのベルベットスーツを作ることになったのですが、
ずっと昔から彼のライブとか、テレビ朝日のポップジャムとかを
見てたからある程度計算して、自分なりに良いと言えるスーツを作れたと思います。

細木和子の「ズバリ言うわよ!」で着て下さってたんですが、
そらズバリ似合ってましたよ!


続く

2008年6月12日

なんと出来上がってきたのはビックリにもダブルのスーツでした。

母親曰く今流行ってるらしいと…
3つ釦が良かったのに~

それもW4×1のVゾーンの低いタイプ。
ちょっとゆったり気味で肩パットはナチュラルじゃなく、
かなり厚いめで幅がなく硬い。

当時人気になりつつあったが、
あまり好きでなかったアルマーニな感じのショルダーでもなく、
工房の職人さんにパットだけちょっと薄くしてもらったのを覚えてます。

ちょっと職人さんは嬉しそうにほらって感じで
僕の言ってた感じに治してくれた。

ダブルだし3つ釦には直せないのでまぁそれは仕方なし。

これでなんとかお葬式以外でも考えたら着れそうな黒スーツが完成した。

ここからはおらが街、北摂南茨木の自称いや同級生数人からは
確実にマジでファッションリーダーだった私は考えたのだ。

赤い靴下に黒いパッシュの靴を穿き、
スーツの中は白Tシャツを着て、
あの当時大人気で一世風靡した
あの「一世風靡セピア」みたく、
そいやぁーそいやぁーソレソレと
梅田のEST-1や阪急ファイブに繰り出した。

雑誌のファッションチェックに出た時もありましたが、
スーツのクレジットとして「ブティックミチ」は
男子高校生にとって雑誌に出るには
勿論嬉しくも恥ずかしいが勝ってしまうのだ。(笑)

仕方なし。

ミチとは母親の名前で
今はもう閉店した母親のそのサロンの名前だ。

織りネームやブランドネームってイメージとして
大事であることをその時に実感しました。

何もブティックミチが悪い訳ではないが、
メンズブランドには聞こえないから辛いよね!

またそんなちょっと流行りの着こなしって
最初はお洒落かなと思ってたんだけど、
かなり軟派な気がしてちょっと嫌気もあった。

確かに高校二年のとき井上君という同級生と
初めて行ったマハラジャというディスコで
年上のちょっと綺麗な女性に声をかけられた時も
そんなスーツの着こなしをしてたような。

大人の階段登るような気はしたが、
軟派であることなんかが馴染めなかった。

やはりこれは音楽というかロックなどの影響だろう。

あと当時僕と同じ学校に同じような趣味の
音楽やファッションの話をする人がいなくて、
他校の人や年上ばかりが知り合いや友人になっていった。

その頃からの友人に同じ中学の同級生だった
不破君という春日丘高校の陸上部の友人が居て、
よく意味もなく春日丘高校に遊びに行ってた。

春日丘高校は私服が許された学校で、
僕も入学したかったんだけど偏差値と内申書が足りなくて、
もう少し入りやすい一応制服を着る摂津高校に入学した。

でも登下校は私服で学校に行くことが多く、
学ランを学校に置いてる感じでした。

春日丘高校通称カス高には二歳上の姉が通っていたのだが、
顔が割と似てるのでよく声を掛けられたり、
弟なことがバレたりして恥ずかしかったので、
何を間違えたか一世風靡なスーツに
軽いメイクをしてカス高の学園祭に行ったのだった。


続く


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2008年6月 8日

そのロンカーターがテレビCMに出てた
エフワンのイージーオーダーの工場が、
今でも鳥取市にあるグッドヒルで
当時はエフワンのグループだったのでしょうね。

母親はゴルフコンペを兼ねた工場見学に行ってたみたいで、
大きな工場で機械化されて凄いよって言ってたのと、
ゴルフのスコアが女性にしては良かったみたいで
小さいトロフィーもらってたのと、
そのゴルフ場の経営もグッドヒル関連らしいとか、
20世紀梨を剥きながら色々話してくれました。

南船場の赤いアーティストである友人のケンハマザキさん
夏休みとかグッドヒルでバイトしていたらしい。

またちゃっかりというかそのゴルフ場でキャディーさんもやってたそうです。
赤い服着てたら笑うね。そんなことはないでしょうが…

ちなみに大体母親訪問と同じ時期に
ケンハマさんが働いてたと思われます。(笑)

まぁとにもかくにも僕の中では
ロンカーターなスーツで決まりな訳ですが、
その頃の自宅の一階が店で
その奥には職人さんや縫い子さんが何人もいる工房で、
僕ら家族はその二階に住んでたので、

外注のイージーオーダーだとその職人さん達の仕事にはならないので、
僕の初めてのスーツを作れないことがちょっとだけ寂しいような、
そんなような感じがして、その件は子供なりにちょっと気にしていました。

実は2007年に某大手飲料企業のCMで
ロンカーターのスーツを作ったのだけど、
やはりとても嬉しかったし、緊張してたのはうちのスタッフの宮本の方だった。

やはりスタッフが一緒だとね(笑)


さて話を戻して、母親に採寸してもらってから、
そうこうして1ヶ月後にスーツが出来上がってきました。


続く

2008年6月 6日

私がスーツを初めてオーダーしたのは、
確か86年とかで高校二年か三年位の時で、
母親の経営するサロンで母親に
直接採寸してもらってオーダーしました。

別に今のように体型も膨張してなかったから
既製品でもサイズ的にも十分良いのだけど、
母親が息子のスーツを作りたいという気持ちは分かるし、

どっかにスーツ買いに行くとすると、
当時DCブーム終わり位だけど好きだった
コムデギャルソンとか、ヨウジヤマモト、ゴルチェ、KENZO、
とかを買ってしまうので、
お葬式とかじゃ着れないだろうし、
ちゃんとしたというか真面目に見えるスーツを
そろそろつくらなきゃということで、
母親のサロンで作ることに落ち着きました。


母親のサロンは元々レディースのみのオートクチュールだったのですが、
その何年か前にメンズのオーダーメイドも初めてました。

まぁ変な例えではありますが
本質的な話で例えると「冷麺初めました!」という感じで
冷麺が密かな人気メニューとなり、
年中冷麺をやることになったラーメン屋みたいな感じっていうと
昔気質な母親には誤解されそうだが、
冷麺で人気を上げたラーメン屋の味の確かさや
メニュー開発努力にも敬意込めた上で説明すると、
「ラーメンで培ってきた基本が新しく人気の冷麺を育てた。」
と言えば分かって貰えるでしょうか?

まぁそんな感じに近い展開だったと思います。


それでフルオーダーか所謂イージーオーダーか
選択することが出来たんですが、
当時イージーオーダーの工場のカタログのモデルが、
ロンカーターであったので、

何気に学年一番みたくファッションと音楽マニアをカブいてた僕は
ロンカーターの着てるスーツにしたいとゆう安易な考えで
イージーオーダーで作ることになりました。

続く

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