2009年8月23日

最近戦国ブームというか、
数年間は戦国武将ブームらしい。






戦国史マニアになって苦節30年を超え、
私としても非常に嬉しいというか、






長年陰ながら1人で本を読みあさり研究をしてきましたが、
報われてきたような気がする。






テレビ番組を見てもよく歴史番組や戦国関連の話をやっていたり、
信長、秀吉、家康などもさることながら、






その陪臣や家来、またマイナーな出来事をクローズアップしたりで、
マニアックぶりもなかなかの番組もある。






陪臣とは…大名の家来でありながら大名並みの禄や役割を与えられた臣






有名なのは直江兼続など






城好きなロンブー淳や歴史アイドルという自称マニアも登場し、
群雄割拠とした芸能界において、武者返しな偉才を放っているようだ。






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石垣の最初よりも上に行く程に
急勾配になっているので登り難くなっている。






また武将の甲冑パンツなる男性用パンツが大変人気らしい。






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なかなか面白いブームとなっている。






そうそう!






最近も雑誌のpenで武将特集をやってましたからね!






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その辺りの話などもまた近いうちにしていきます。

2009年5月15日

言わば作者は信長三部作の最後のミステリーである
信長の死体の有無を明智左馬助という






実直な人物像に託したというか、
一番厄介な問題を全てこの主人公に任したとも言える。






確かに秀吉に負けた光秀の敗因は、
信長の死体の捜索に時間と神経をすり減らして、






無駄な時間を使い過ぎたことに起因する。






それだけ光秀は信長という人間を
恐ろしく怖がっていたのだろう。






つまりもっと言うと信長を殺害することまでは緻密であったが、
その後の天下構想などは彼には殆ど無かったのだ。






天下を狙う者は、






1、天下を治めるべき力がある程度あること、






2、統一に向けて用意周到であること、






そして最も一番重要なのは、






3、極めた強運を持っていることである。






この3つが揃って初めて天下人になりうる権利が
生まれる程度かもしれない。






何百年もの戦乱の時代から、
天下を取るということは果てしなく凄まじいことなのである。






光秀や左馬助には、
その時点でそれなりの力はあったが、






あとの2つが本当に無さすぎた。






準備と運が無さすぎたのだ。












ということよりも光秀の後継者の左馬助には、
信長に謀反しようと思う気持ちなど全く無かったことだろう。






ただ当主光秀に付き従うということだけだったろし、
仮に天下を狙う気持ちがあれば、






この本において、左馬助が確認していたとされる信長の死体を、
必ず光秀に差し出したに違いない。






世知辛い戦国の世に妻との純愛を
生涯貫いたとされる光秀と左馬助






この純粋な常識人の二人にとって
戦国の世をどう感じとっていたかが、






私が本当は一番知りたい所である。












さて話は変わりますが、
プレイステーション2の鬼武者1の主人公は






この明智左馬助秀満であり、






プレステ3ではその左馬助は生き延びて






天海という僧になったとされている。






勿論架空のミステリー話ではあるが、
光秀もしくは左馬助秀満が、のちに天海になったという話を
信用している人は結構多い。






また光秀の重臣だった斉藤利三の娘であるお福が、
三代将軍徳川家光の乳母となり、






大奥を支配したあの春日の局へと出世した為、
それらを妄想で結び付ける人が多いのだ。






天海は天下人家康に仕え、
後にも先にも最も信頼を得た高僧で、






家康の死後も日光東照宮や寛永寺の設営を考案し、
江戸初期の幕府の中枢を掌握した。






このように左馬助伝説には、
ミステリーが多いのも何か不思議な部分であり、






そうした点を良く知る方がこのような作品を生み出している。






勿論この類の話には、素晴らしい歴史ロマンがあり、
歴史を研究すればするほどに妄想すると






さらに極めて楽しいのだ。

2009年5月11日

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私小西がこの本の論評を書きたいと思います。






うちの森本が感想文を書いたこの「明智左馬助の恋」
えっと~僕は発売日すぐに購入しすぐ一気に読みました。






確か2年半位前だったかと…






著書加藤廣氏が考案したこの信長三部作、






「信長の棺」、「秀吉の枷」、この「明智左馬助の恋」、というのは、
作者が本能寺の変の新たな説を唱えるという点を、






巧みに擦り合わせたことから考えられた
作品であることにまず違いない。






そういう限定されたストーリーの中で、
非常に繋がりがうまく書けている作品だと感心しました。






ただたったひとつ個人的な思いとして残念だったのは
「秀吉の枷」の文中にて歴史考証における大きな間違いがあったことを、






出版社に書面で指摘したのに、
全くその連絡や説明が無かったことは
1読者として少し残念でした。






時代考証に誠実な作者にとって、
まず気にならない訳がないのだが…






さてこの明智左馬助なる人物像は、
歴史マニアな私にとっても非常に興味深い逸材で御座いまして、






彼の立場を説明しますと明智家の養子!






所謂マスオさんです。






元々は三宅という姓でした。






ですから明智光秀の後継者と
言われていたことはまず間違いない。






左馬助という人物は、
様々な文献から語られてる人間像をみると、
やはりかなり誠実な方であったようだ。






山崎の合戦後に光秀が死んで、
翌日最後に左馬助がたて籠った近江坂本城にて、






自刃する前に城に蓄えてあった全ての財宝や
貴重品を秀吉方の武将、堀秀政に託したという
エピソードは誠しやかに有名な話。






そういう彼のイメージを中心にして
綴られたのが左馬助の恋であり、






この三部作の真相である信長の死体の有無についてである。






その2の2に続く

2009年5月 6日

made toの森本です。






最近、巷で戦国モノがブームになっているのをよく聞きます。






アニメやゲームソフトなどから興味をもった
若い女性の間でもブームになっていて、






武将をモチーフにしたファッションや雑貨などがよく売れ、
戦国武将などを扱うイベントも開かれてるようです。






女性にとっても男性と同じように
戦国武将は自分では実現不可能なことをやってのける
ヒーローの様に映っているのかもしれません。












さて、今回は戦国マニア見習い森本による
私の好きな武将に関する書籍をご紹介させて頂きます。






以前、オーナーの小西がコニログで紹介していました
加藤廣氏の『信長の棺』、『秀吉の枷』に続く






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本能寺三部作の完結編 『明智左馬助の恋』。






本能寺の変に至るまでを
当事者の明智光秀側から視点で描いた物語です。






明智左馬助(明智秀満)は
義父である明智光秀の腹心として仕え、






有名な本能寺の変では先鋒として本能寺を襲撃し、
その後、守備の任にあった安土城で、






山崎合戦における光秀敗戦を知り、
救援に向かったが、






大津で秀吉による追討軍の
先鋒である堀秀政に敗れ、坂本城に入り、
光秀の妻や子と共に自害するのですが、






その坂本城に向かう際に、
琵琶湖の湖上を馬で越えたという






「明智左馬助の湖水渡り」の伝説が
語り継がれている武将です。






時代に翻弄されながらも、
実直に生き抜いた光秀に就き従った潔い生きざまに
ある種のさわやかさを感じずにはいられませんでした。






是非、一度読んでみてい下さい。












また、LIRIOさんにて、
「コニログスポーツ!」略して「コニスポ!!」をスタートしています。






皆に感動を与える様々なスポーツやその魂をリポートし、
知られざるアスリートの素顔や日常を
独自の真面目で面白い観点で追いながら、






こんな節度と緩さのあるスポーツ紙があったら良いなぁ~的に
エンターテイメントなども紹介していきます。






こちらも是非ご覧下さい。






携帯電話でご覧の方はこちらをご覧下さい。

2008年7月16日

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made toの森本です。

今回はコニログの戦国コラムでも大変ご好評の
センゴクについてご紹介させて頂きたいと思います。


私もオーナー小西と同じくセンゴクマニアですが、
マニアというにはそこまで知識もないので、
センゴクマニア見習といったところですが、
もともと、日本史、特に戦国時代が好きで、

少年時代は、織田信長、武田信玄などの伝記を読んだり、
NHKの大河ドラマや正月の2日に12時間にわたって放映される
『新春ワイド時代劇』などを食い入るように見ていました。

そんなこともあってある程度の知識はあったつもりでいたのですが、
センゴク、面白いです!


すでにオーナーの小西が何度もご紹介させて頂いておりますので、
ストーリーの詳細は省略させて頂きますが、

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など時代の権力者を主役として時代を動かし、
その時代の変化のときに、足軽の先駆けという戦場の最前線を任される
主人公の千石秀久がどのような行動を取ったのかを
史実に基づいて描いています。


迫力ある軍団戦の中にこの一兵卒である
センゴクを通しての今までにない視点を織り込むことによるリアルな戦争描写や、
斎藤龍興と朝倉家、浅井家、武田家、比叡山延暦寺などの
反織田勢力との戦略、戦術など謀略戦に加え、

「だがこの定説には疑問が残る」というフレーズから始まる
筆者独自の新解釈を提唱しています。


また、いかにして相手の裏をかくか…
いかにして本音と建前を分けるか…

裏の真意の探りあい、駆け引きは
マニアならずとも人間心理をついていて非常に読み応えがあります。


それが顕著に表れているのが、
徳川家康が討ち死に寸前まで追いつめられた
武田信玄との『三方ヶ原の戦い』で、
(『センゴク』9巻参照)

信玄の戦略的に緻密に考えられた策略に
織田・徳川陣営はなすすべもなく扱われています。

優秀な部下に支えられている武田陣営の強さに
織田信長が次第に窮地に追い込まれる姿が
なんともたまらない。

戦国時代のリアリティーからは外れずに
創作し過ぎないように描いていることが
センゴクの面白さだと思います。


『センゴク』最終巻の第15巻にて秀吉隊の活躍により
浅井家を制圧したところで終了し、

今まで、一兵卒だった仙石秀久も
続く『センゴク天正記』からはその名の通り、
信長より千石を与えられ、一士官になり、
少しずつ大局的な物事の見方を身に付けています。


武功を重ねて頭角を現していく男、
頂点に上り詰めていく男、滅びていく男、
そこにかかわる女たちを交えて、
物語もどんどん面白くなってくると思います。


戦国史上最も失敗し最も挽回した男の物語
『センゴク』にこれからも期待したいです!

2008年5月24日

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森本君に借りて読みました。
森本君も僕の影響かなんか分からんがセンゴクマニアらしいです。

確かにこの桶狭間戦記は読みごたえありますね~

ところで今月5月19日は桶狭間合戦の日です。
1560だから448年前ですね!

桶狭間特別記念で行きますよ!


織田信長と今川義元が遭遇し激突したと言われる桶狭間の戦いは、
一般的な歴史解釈として、信長の奇襲に
義元は油断していて負けたという歴史上の点として語られることばかりです。

しかし実は桶狭間の戦いというのは、
そういった点ではなく、線として考えた方が良いのではないか?
というのが作者や最近の新説を唱える歴史学者の見方となっている。

人は偉大な御内やもしくは強大なライバルによって刺激され、
能力が覚醒されるという考え方を基本とし考えていくと、
信長の能力はまさに桶狭間によって覚醒されたと言える。

その考えを基本に、信長の父織田信秀、信長の敵今川義元
そしてその軍師であった太原崇孚雪斉というこの偉大な三人が居て
その影響の中で、織田と今川が20年以上切磋琢磨して戦ってきた線上を
桶狭間だと考えるのは、なかなかなるほどと思えるのです。

今川義元は非常に優れた戦国武将で、それを育てた雪斉は、
山本勘助竹中半兵衛などにも決して劣らない天才軍師であると思う。

その辺りの義元と雪斉礼賛と言うべき内容が
うまく書かれている漫画だと思います。

2008年3月20日

前行きつけのバーで、私がとてもお世話になっている方から
ある紳士な方を紹介されました。

その紳士の方との会話の途中で、
その方のご先祖は武家であることなどを、
お世話になっている方が軽くほのめかした瞬間に、
失礼ながらも歴史マニアな私は、
その紳士な方の名字から推測して
〇〇国の戦国大名の某の末裔であることを
ズバリ当ててしまったのでしたぁ。

いかんせん戦国史マニアな心に火がつきまして、
初対面なのにちょっとズケズケと失礼な発言と思いながらも言ってしまった後に、
ちょっと独りで後悔していたんですが、
「なんと~そこまで当てられたことは今まで初めてですよ!。」
と紳士な方におっしゃって頂いたことを皮切りに、
良いのかな~な?!空気感にまかせて、
もっと余計調子に乗り、そのバーは私の歴史講釈の独壇場になってしまった。(笑)

その方の先祖の戦国大名の某は、
天下人になる前の某に反旗を翻して滅亡して落ち延びて存続したらしいので、
戦国史の時間がちょっと嫌だったそうだ。

しかしその方のご先祖様の地元〇〇市では
何百年もその大名家を奉った祭りが行われており、
今もその〇〇様は地元市民の英雄であることや、
その〇〇家の本筋の先祖は、
戦国時代から少し遡って〇〇将軍時代には「
四職」などにも挙げられる名族であることなど、
それよりもっと古いお話なども含めご説明しました所、
知らないこともあり勉強になりました。
とこれまた紳士的に優しいお言葉を沢山いただきました。

勿論僕が半ば一方的に話をした訳ですが、
ちゃんとその方やバーに集まった関係者との
コミュニケーションとしての中での流れでありますので…

コニログ読者の皆様ご理解下さい。

また知り合いの友人に
その〇〇家の本筋の先祖の名門〇〇家の女の子が居りまして、
大変綺麗でモデルかアイドルに成れそうな位に可愛い人でした。

色々と調べてみたらその名門の〇〇家は
美男美女の多い家系だったという資料がありました。

ある紳士な方の身のこなしと言い、ある名門の美女の美しさといい、
何か羨ましさと憧れがありますが、
やはり殿様と姫様に違いない方々だと痛感致しました。

「洋風仕立て屋!お主頭が高い!」と言われそう。(笑)

2008年1月25日

秀吉の政権が畿内で安定してからは、
ガラシャは幽閉を解かれることになる。

当時の細川家の対応や忠誠心が秀吉にとって納得出来るものであり、
他の大名への見本とも言える措置だったからだ。

妻を自ら幽閉することで家と一族を守った細川忠興と
自ら進んで幽閉されることで赦されたガラシャ。

その後の細川家は、秀吉政権下で出世街道をひた走り有力大名となる。
しかし秀吉の死後は徳川家康に鞍替えし関ヶ原の戦いでは、
東軍徳川方の急先鋒となる。

お家存続というやり方としては見事であったのですが、
西軍を裏切ったツケがまわってきたかのように
大阪城屋敷に残されたガラシャにはさらなる悲劇が襲ってくることになる。

石田三成らを中心とする西軍側は、
東軍に寝返った豊臣恩顧の大名の妻や家族が
大阪城屋敷に居ることに目を付けて、人質にすることを企む。

そして西軍はまず手始めとして東軍へ乗り換えた
有力大名である細川家の屋敷を攻めた。

屋敷に残る妻のガラシャや家来達は
忠興に心置き無く堂々と東軍として
戦ってもらうようにと考えて死を選ぶことになる。

細川の家来達は大阪屋敷で西軍とのいざこざで戦死したり、
自害していったが、キリスト教では自殺を禁じられているために
ガラシャは自害出来なかった。

ガラシャ自身が家臣に介錯を頼み、泣く泣く家臣は刀を振り下ろしたという。
敵からも同情された若すぎる38歳での見事な死に際でした。

皮肉にもこのガラシャの抵抗のおかげで、
西軍はこれ以上の被害や攻撃は逆効果で、火に油を注ぐと判断し、
東軍の大名や武将の妻や一族を人質とすることを諦めたのだった。

才女ガラシャのおかげと言うとあまりに切なく悲しい話ですが、
他の東軍に乗り換えた大名の大阪で留守を預かる妻や家臣達は、
皆死なずに済んだのである。

あの内助の功で有名な山内一豊の妻千代もこの時に大阪屋敷に居たのですが、
このおかげで助かった1人でした。

また妻ガラシャの貢献だけではないにせよ、
関ヶ原の戦いで大活躍した細川忠興は徳川政権下で
50万石の大大名に出世することになる。

悲劇な話でありますが、
かくも賢きガラシャの話は日本中でも美談として語られることになり、
またガラシャと交流のあったキリスト教イエズス会の宣教師達は
神聖ローマ帝国のローマ法王にまでその話を伝えたという。

日本ではある種の武士道的解釈で美談とされているのに対して、
ヨーロッパのイエズス会を中心とするキリスト教の地では、
遠く東の果てのジパングつまり日本で、
キリスト教信仰に熱心な高貴な姫君ガラーシャの殉教死として語られた。

それは当時の日本から帰ったイエズス会の宣教師達の
土産話の鉄板(マスト)とも言えなくもない(笑)

だから色んな尾ひれや背ひれがついてしまったとも言える。

とにかくガラシャの話は海を渡り遠くヨーロッパまで広がり、
そして多くのヨーロッパ人に語り継がれることになる。

そしてなんとガラシャを題材とした戯曲「気丈な貴婦人ガラーシャ」が作られ、
神聖ローマ帝国皇后の聖名祝日である1698年7月26日に初演され、
ヨーロッパ中でロングランの大ヒットとなった。

実にガラシャの死から98年後のことである。

特に当時のハプスブルグ家のお気に入りの戯曲であったようで、
まずこの時代の貴族で戯曲ガラーシャの話を知らない人は殆どいなかったらしい。

他国に嫁がされながら自らの信仰を貫いた気高さに、
マリアテレジアやマリーアントワネットは感銘を受けたと言われている。

最後にガラシャこと玉の最期の時の時世の句を

「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

2008年1月23日

先日野村選手の奥様が会話の中で、
テレビの歴史番組を見て細川ガラシャの話に感動したと言われていました。

ガラシャには女性ファンが極めて多いのですが、
女性は悲運と言われるガラシャに同情や共感をするのだろうか?

実は日本だけでなく、葉子さんだけでもなく
ガラシャはヨーロッパの高貴な貴婦人にも人気があったという。
あの!あのマリーアントワネットやマリアテレジアなどにも
影響を与えたとも言われるガラシャさん。

かなり昔のことだから話し半分としても
ビックリニュースである細川ガラシャの実像に迫りたいと思います。


さて細川ガラシャの実名は玉といい
明智光秀の三女として1563年に産まれました。

なので正式名は明智玉であり、細川ガラシャではないんです。

幼少より熱心なキリシタンであり、
またこれからご説明します内容が後世のキリスト教信者の伝説となり、
光秀と同じく織田信長の配下の有力な武将であった
細川忠興に嫁ぎ、沢山の子宝にも恵まれた。

当時女性は皆嫁ぎ先の姓で呼ばれることはなく、
正室であっても普通は名字はなく玉やお玉と名前しか呼ばれなかったのです。
細川殿の奥方の玉様とかって呼ばれるのです。

例えば~有名な豊臣秀吉の正室おね(ねね)でさえも
豊臣おね~とかには絶対に呼ばれない訳です。(北政所や高台院とも呼ばれるが)

姓を許されたのは当時は男性のみの特権だった訳で、
正しくは細川ガラシャとは当時の名前ではないのですが、
ここでは玉でなく間違っても分かりやすいガラシャと呼びますね。

何故にガラシャが名を残したかと言うと、
本能寺の変と関ヶ原合戦という歴史上の大きな流れの中に密接に関係するのです。

本能寺の変の際、玉の実父である明智光秀は、
自身の与力衆(信長から預けられたお目付け役の家来)で
姻戚関係のある細川藤孝、忠興(ガラシャの夫)父子は
必ずに味方するとと光秀は信じていた。

(当時の光秀と藤孝の関係は、織田信長が大社長とするなら部長が明智光秀で、
その直属の部長代理ないし、優秀めな課長クラスが細川藤孝という感じ)

細川家はある意味で上役上司にあたる
光秀に協力しなかったことで家名は一応は存続したのですが、
しかし細川家にとっての問題は謀叛を起こしたのが、
ガラシャの実父である光秀ということでした。

光秀に味方しなかったのはその流れ的には良かったのですが、
戦国の世の中はそんなに甘くはありません。

光秀に勝った時の権力者である秀吉に忠誠を誓う意味でも
何らかの自己処分をしなければ、細川家に罪を問われる可能性があったので、
細川家の決断は悩んだ挙げ句に、ガラシャを幽閉するということになり、
ガラシャは一年以上も細川家監視の中で幽閉生活をしいられた。

今では信じられないような話ですが、
当時女性は家名存続の道具でしか無かったのです。

そのことを理解し命懸けで成し遂げたのがガラシャさんで御座いました。

因みに細川家は元首相の細川氏の先祖であります。


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2007年7月 1日

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センゴクの10-11-12巻を品川駅でまとめて購入。

あとコニログ「ウナセラVIPルームに逃げるのだぁ~」の時に
初対面した高城剛さんの「ひきこもり国家日本」も購入。


どちらもかなりナイスですね!


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ひきこもり国家日本


「ひきこもり国家日本」については、
かなりイケてる面白い本なので、またお次の番に致します。

センゴクは漫画を超えた恐るべし教養本となっていますが、
でもやはりストーリーが面白いっすね!

新説を唱えながら、しかも明るく、
絶妙、巧妙、功名を挙げようと必死な侍の維持を表現(ラップ調)

地味な合戦でもさも中身のあるように細かいストーリーにする術は、
傑作日本漫画界の特徴ではあるけれど、

合戦の敗者をもそこまで讃えるかぁ~!?な姿勢が非常に泣けてくるのだなぁ。

戦国時代にそこまでも存在したか?ちゃんと分からないような武士道の在り方。

また主人公仙石秀久を始め、
後に城普請の名人となる藤堂高虎、
笹の葉で有名な槍の名人可児才蔵、
などの若武者の青い活躍ぶりも面白いのだ。

この3者は、全て後には豊臣を捨て徳川につくのだが、
信長重臣時代の木下~羽柴の姓の秀吉にいち早く仕えて可愛がられ、
秀吉という秀才武将を限りなく尊敬していた武者達であることは想像できる。

いわばこのセンゴクは隠れ太閤記と言えるのではないか…と

今後のセンゴクも楽しみだ。

2007年6月14日

前回山中鹿之助を筆頭とする尼子十勇士!?を紹介したのですが、
その主君であった戦国大名尼子家を説明しないと

訳が分からないな~

と痛感したのでご説明といきましょう。


そもそも尼子家は北条家とともに15世紀末の応仁の乱後に
下克上から戦国大名となった下克上の名門。(笑)

当時北条早雲と並び残忍な尼子経久は
最初の下克上大名として恐れられていたのである。

要するに蝮の斉藤道三の下克上の大先輩なんです!

北条は関東の小田原周辺を、
尼子は出雲つまり現在の米子や松江辺りを本拠としていた。

あの有名な毛利元就も小領主の時は尼子の支配下にあったが、
豪傑英雄であった経久が亡くなると
山口県から島根、広島を支配下にする大内家の配下にのりかえたのです。

そのせいで毛利元就の居城吉田城は尼子に攻められることになるが、
武士百姓などみんなの力で耐え凌ぐ。

実はこの頃の尼子は経久が亡くなりそれを継ぐ者が無能で、
また強大過ぎた為に一族が天狗になっていてバラバラだったので、
他国へ進出することが出来なくなっていたのでした。

ある意味元就の有名な「三本の矢の教え」の理屈は、
尼子家の脅威から逃れる為に考えられたといえよう。
(三本の教えは後世の作り話らしいが…)

兎にも角にも厳島の合戦で勝利を収めた毛利元就は、
吉田城を攻められてから30年後に、
当面の脅威であった尼子を滅ぼすのであるが、

その時の尼子家の残党の話が
有名な角川映画の「八つ墓村」のストーリーになっています。

また尼子家再興を願うべく七難八苦の活躍で
毛利に対抗したのが前回ご紹介した山中鹿之助でした。

山中鹿之助は赤痢にかかったと嘘をつき、
夜中にかわや(トイレ)に何度も行きながら、
隙を見て牢獄を抜け出したとか。

兎に角尼子最高!ではなく尼子再興!を実行した人なんですが、
上月城の攻防では信長や秀吉にも見捨てられたりツイテナイ最期でした。

戦国大名尼子家のお話でした。

2007年5月18日

猿飛サスケ、

霧隠才蔵、

三好清海入道、

伊豆入道、

根津甚八、

筧十蔵、

望月太郎、

海野六郎、

穴山小助、

由利鎌之助、

と言えば有名な真田幸村率いる真田十勇士です。

残念ながら幸村や穴山、由利、海野以外は
全て架空の人物との見解で、
有名な幸村(正しくは信繁)の存在だけしか
断定的確実な歴史的証拠もないのが現状です。

俳優の根津甚八さんは
この真田十勇士の架空の人名を元に芸名をつけた訳です。

そんな十勇士ですが、実は真田だけではありません。


それは


尼子十勇士!(あまご)


勿論殆どあまり知られていません。(笑)

毛利に滅ぼされた出雲の戦国大名尼子家。
その再興に燃えた七難八苦の英雄伝で
有名な山中鹿之助を筆頭に、

植田早苗之介、

川岸柳之介、

早川鮎之介、

深田泥之介、

藪中茨之介、

尤道理之介、(もっとも)

安宅庵之介、

破骨障子之介、

荒波碇之介、

小倉鼠之介

大谷古猪之介、

今で言う池乃めだか、吉幾三みたいな芸名のような名前ばかり!

しかも全て山中鹿之助をなぞって
連想させるようなパクリ感丸出しの名前です。

しかも10人以上いるのに、なんで十勇士なのかもさっぱり分かりません。(笑)

それはさておき尼子十勇士は、
「常山紀談」という江戸時代に書かれた文献に登場します。

想像するに「山中鹿之助」という実在する人の名前が
駄洒落っぽいのを理由に、
恐らくそれに肖って洒落がきいた名前を
同じような法則で付けていったのだろう。

と考えられるが…

もっとコントなのは実は
山中鹿之助以外はろくな活躍をしていない。(笑)

例えば尤道理之介は尼子家から城を預かる城主であったが、
作戦会議の後味方に悟られないように黙って敵前逃亡し、
敵と味方共に呆れられたり…

凄い道理なさすぎぃ~だ!

故いかりやさんの駄目だコリャ!まるでドリフですね。

山中鹿之助がユニークな名前とは裏腹に
何故これほどまで有名になったかと言うと、
江戸時代に忠臣蔵と同じように歌舞伎や講釈にされ人気を呼び、

また南北朝時代の楠木正成と並んで義の武将として
明治以降の道徳の教科書に載ることが多いので、
今日までの知名度があると言えます。

尼子十勇士が嘘かホントかは別にして、
山中鹿之助の義の精神とお笑い尼子十勇士はどんな接点があるか?

またいかりや長介、加藤茶、高木ブーなどの
ドリフのネーミング術に与えた影響があるのか?ないのか?

などこれから調べていきたいと思います。(笑)

2007年3月 4日

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山本勘助。歌川国芳作


今年大河ドラマで人気の山本勘助について
多くの謎があることをご存知でしょうか?


戦国の甲斐武田家を語る歴史の文献として一番有名な甲陽軍艦は、
実は江戸時代に書かれたもので、
戦国時代やその当時に書かれた文献には
勘助のことは全く書かれていないという事実があるのです。

またその本に出てくる第4次川中島での勘助が策を講じたといわれる
「啄木鳥の戦法」は、現在の研究では無理がある戦法で、
かなり怪しいのでは?という意見が研究家の中でも主流になっています。

それでも勘助の子孫が居たりもするので、
やはり居たのかもしれないんですが…

実際分からないことが多いのです。


大河ドラマも殆ど推測の世界に入ってますからまぁ仕方ないですよね!


ただ歴史には隠しても隠しきれない正真正銘な事実と、
有名な話だが曖昧で分からない虚像が混じり合っているんで、
それは幾ら資料を出してきた所で、
断定的ではなく恐らくこうなのではないか?という結論しか出てこないのです。

つまりは歴史はそんな色んな異論なロマンに包まれてるから、
マニアにとって愉しいのでしょう。

2006年12月25日

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「人間50年、下天のうちをくらぶればぁ、夢幻の如くなりぃ~…」

織田信長がよく好んでいた舞で知られる敦盛の一節である。

そう本宮ひろ志の漫画「夢幻の如く」は信長が本能寺の変で死んでいなくて、
実は生き延びていたという架空のストーリーから始まる。

歴史上の大事実としても、
信長の死骸を明智光秀はとうとう見つけることが出来なかった。

そのことはその後の光秀の行動にもかなり影響していて、
死骸探しを一週間近くもかけている。

それが山崎の戦いで負けた一つの要因ともされています。

また秀吉に負け、百姓の竹槍で殺されたとされる光秀の死骸首の選定も、
実はかなり怪しいことが歴史上の事実でも明らかになっており、

この2つの死因については、戦国史の七不思議とされています。


要するにそんな歴史の面白い推測から発展した漫画と言えるのだ。


信長の物語ってのは、大抵いかに彼が天才であったか、
独裁的な権力者であったことなどが描かれる訳ですが、
夢幻の如くではいかにも漫画的なアホキャラも交えてあるので、ちょっと面白いのだ。

本宮ひろ志の代表作品の「サラリーマン金太郎」を
読んだことのない僕でも面白かったですね。

漫画が好きではなくて、歴史好きってちょっと珍しいですかね?

2006年9月27日

sengoku.jpg
ヤングマガジン連載中の「センゴク」ってなかなか面白い。


歴史友人のハカセから借りたんだけど、
単行本一巻から十巻まで読みました。

仙石秀久(センゴクヒデヒサ)というちょっとだけマイナーぎみ
(ちなみに山内一豊よりマイナー)な秀吉の家臣だった人を
無理やり主人公にした内容なんだけど、
結構憎いのが歴史考証にちゃんと忠実で、
僕やハカセ的にも研究?!してるような歴史の新説や
新解釈にかなりのセンスがある内容なのです。


作者宮下秀樹は実際に合戦場に足を運んだりして、
歴史文献のような合戦が可能か不可能かを検証してみたり、
推測的内容も歴史マニアとしての教養の高さが窺える。


僕的には戦国史でマニアな発想や高い教養をひけらかすことは、
勉強にもなるから、さほど嫌みには感じないんですが、
一般論としてやはり漫画という大衆娯楽は、面白みがないのでは……
つまらないと思うのだ。


しかし「センゴク」は漫画としても面白いので、
多分歴史に興味のない方でも沢山の方が読んでいると思いますよ。
勿論、ヤンマガに掲載されているのもうなづけます。

この漫画を読んでいると
なんだかハカセと戦国史ブログをはじめたくなってきました。

僕が読売新聞に連載中のファッションコラムメンインエポックで、
いつか「戦国大名のちょい悪ファッション特集」とか無理かな?

担当記者はどうでしょう?

2006年6月26日

またその2で登場した謎解き説ですが、
仮に宗及が本能寺の変を事前に知っていたとすれば、
もうひとつ大きな疑問に直面します。


「何故津田大輔はバルニバーニを裏切ったのか?」ではなく、


「何故津田宗及はうまがあう信長を裏切ったのか?」ということ


歴史的な推測をすると、天皇制擁護説や、
秀吉家康推薦説、怨恨説、故テレサテンのように時の流れに身を任しただけ、
など色々考えられる訳ですが、

僕的には、案外堺の商人達は海外貿易の利益や海外商人からみて誰が良いか?と
いった国際的視点で捉えてたのではないか?と思っております。

「信長も悪くないんだが目利き過ぎて、
秀吉の方が都合が良い」とかみたいに、
いわゆる堺の商人しか持ちえない観点や価値観が存在したことが考えられる。

ところで宗及の末裔の1人っ子の津田大輔さん(28)はAB型特有の、

時折凄い発言ぶり!?があるのですが、

これも先祖特有の独自性のある考え方のせいなのか?
単なる血液型特有の性格のせいなのか?
もう少し何か調べてみたいところですね。(笑)

2006年6月23日

最近、特に津田宗及について書かれた本を移動中に読んだり、
寝る前に調べたりするのが、ちょっとした習慣になっているんですが、
その中で、資料を読むだけでは信用出来ないような幾つもの謎や、
真実や実体について分からなくなることが沢山あるのです。

ところで末裔の話に戻りますが、
吉川晃司は小早川氏と並び毛利の両川と呼ばれた吉川氏の末裔だそうです。


kikkawakouji.jpgyoshikawahiroie.jpg
吉川晃司                  吉川広家


また、テレビ番組の「トリビアの泉」でも紹介された為、有名ですが、
一休さんの漫画アニメで知られる蜷川新右衛門?(シンエモン)さんの末裔は、
K-1の武蔵選手なのですよ!


sinnemonn.jpgmusashiake.jpg
蜷川新右衛門             武蔵選手

で津田大輔君は、津田宗及の直系子孫でしかも長男で1人っ子!でまだ未婚!

勿体ない勿体ない!(笑)

彼が宗及の血を引くというのも、誠に不思議なんですが!(^O^)
そう!本能寺の変の前後の宗及の動きが、かなりの不思議ちゃん!?なんです。
それは歴史的な新説にもつながることなので、
これからももっとじっくりと調べて行きたい事項なんですが、凄く簡単に申し上げますと、


「宗及は本能寺の変が起こることは事前に知っていたんじゃないか?!」


という事実が、常につきまとうのだ。

「津田宗及茶湯日記」なる国宝級な資料にも本能寺の変の少し前に、
かなり不思議な秀吉と宗及の茨木城での密会が記載されている。
私の出身の地元である茨木の当時の城主は勇将の誉の高い中川清秀。
恐らく3者の何らかの密約があったと仮に推測する。

それは一体何なのか?

まずここが一つの鍵と僕は見ている。

「わびさび」の悟りを切り開いた茶人家津田宗及にとって、
時代を生きぬく強者達の「わびさび」にも関心があったのではなかろうか?
ただはっきりわかっているのは、
ガーブの津田大輔君に今現在「わびさび」というものを感じることはない。(笑)

ちょっと言い過ぎ!?

2006年6月22日

戦国時代の堺は、町自体が独立した政権で、
町には城のように高い城壁や深い堀があり、
金で三好などの軍事兵を雇い入れ、あらゆる敵からの侵入を守った。

諸外国からや日本中の貿易の圧倒的なる一大拠点で、
南蛮や中国からの、珍しい品が溢れかえり、
高級な海産物や食糧も日本で一番集まっていたのだ。


そうイチバーン!(ハルクホーガンの懐かしいTシャツ)

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ハルクホーガンとそしてもう一人、僕らのザッキーこと坂崎タケシ氏も愛用


戦国期最大発明発見にして最先端の武器、
「種子島といわれた火縄銃」の国内最大級の生産地でもあり、
まさに経済と文化の大国であった。

また会合衆(えごうしゅう)なる堺という
政権国家の実力者が集まる今の国会のような組合があり、
大商人にして日本屈指の茶人であった津田宗及、
茶人であり鉄砲の製造を牛耳る今井宗及という2人の宗及という超大物が
当時その会合衆に君臨していた。
(ちなみにあの有名な千宗易(後の千利休)は、
茶人としては津田宗及の沢山いる弟子の1人で、
商人としても沢山ある商家の1つにしか過ぎなかったのは、あまり知られていない事実です。)


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津田宗及

そのダブル宗及達が、まあ~どれくらい凄い人達かというとですねぇ~
田中角栄と笹川良一と佐藤栄作
と松下幸之助と本田宗一郎と川端康成と岡本太郎を足した位の凄さというか!?
(戦後の同時代の人で表現、また、元経済企画庁長官で、
作家である堺屋太一氏曰く、戦後復興と戦国時代は高度成長期としては、
ちょっと似ているらしいのだ。名字が「堺や!」なのも頷けるぜぇ。(^O^))


当時のあらゆる方面への影響力として、
堺という町は、まさに計り知れない巨大組織だったのだ。

大金持ち集団とはいえ、ヒルズ族のような株的バブルなものではなく、
どちらかといえば、戦後の独占的起業家タイプに近い。
当時の信長の大軍に代表される烏合の衆の集まる権力集団でも決してないのだ。

そんな誰にも屈しない気品の高い人達(会合衆)に、
初めて無理やり頭を下げさせ、矢銭つまり税を徴収したのが信長だ。
その信長のやり口が、凄まじさと緩和とが入り混じり実に巧妙である。
足利義昭を奉じて京に上洛した信長は、
まず自由国家である堺に、二万貫という多大な税を課した。
しかし,当然の如く会合衆は大反対し、信長は八万の兵で堺に攻め込むと宣言する。

そして考えた結果会合衆は、
その番頭格の十数人を話し合いの使者として京に送ることにする。
ところが新興勢力の大名である信長は大激怒し、会合衆の使者全員を切り捨てる。

堺の会合衆としては、殺されたくはないという一心で、
所謂「みんなで渡れば怖くない」とふんだ行動を、
尾張名古屋出身の鬼のごとき信長には、その考えは全く通用しなかったのだ。

そうして堺は信長に屈した。
ちなみに矢銭二万貫のお金の価値ですが、
恐らく当時35才の信長は、そんな大金を初めて目のまえで、見たに違いないはずです。
(簡単に言えば、日本に何人かは年商一千億の会社の社長はいるけれど、
その年商の一千億の現金を眼のあたりにし、
自分所有にできる方って、まずいないでしょ?ヒルズ系投資家を除く)

恐らく自由都市の堺は金を払うことよりも、
誰かに頭を下げることが一番嫌だったはずである.

がしかし、その後信長は比叡山焼き討ちに代表される恐怖政治を、
悪びれることなく続けて行くのだけれど、堺という町に対しては非常に重要視していくのだ。
鉄砲の武器としての有効性をかなり早くから理解し多用した。(長篠合戦など)

また、堺でも広まっていたキリスト教を認め、
私生活では、西洋装が気に入り、あらゆる南蛮文化にのめり込んだという。
また、それとは違って、この頃すでに完成されつつあった
日本独自の文化である「茶の湯」を好んだことでも有名で、
その代表格の権威が津田宗及であったのだ。
つまり、信長は経済だけではない、
洋和問わずの「文化都市堺」を一番理解していた人だったのだ。

津田宗及と織田信長は、
独りの人間としてかなりうまがあったことは、
歴史的にも間違いないだろう。
恐らく津田宗及が放つ茶人としての感性や、
経済人としての動向をを信長は、全て受け入れた。

また、茶の湯は密室で行われる故に、
あらゆる情報を宗及は信長の為に集めたに違いない。
宗及はある時期までは、信長に天下を取って欲しかったのだろう。

茶の湯という密室の中においては、
宗及と信長は唯一無二の対等の関係だったのである。

その津田宗及の末裔が現代も財界で活躍し、
残っておられる事実は、かねてから資料や本で知っていたのですが、
その現在の直系の長男が、このブログにもよく出てくる!


あのガーブの代表の津田大輔君28才なのです!?。(笑)

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津田大輔氏

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